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なぜアクティブ・ラーニングなんだろう
結論はなにか?
最初に、結論を書いておきます。第1章の最後の段落です。
『教えるという立場からアクティブ・ラーニングを発想しても、子どもは期待したようには動きません。「やっぱり先生に教えてもらった方がいい」をいいだすかもしれません。教師は、そこで自分の出番だと思ってはいけないのです。』
「先生、わかりません」と子どもにいわれても、教師の出番ではない。教師の出番だという考えは、浅はかなのだということだそうです。
私はそこまで我慢できないな。どうしても教えてしまう。
ヒントを与えてそれで自分で解決できる子どもならOKでしょう。
でも、そもそも1から説明しなければならない子どもだったら?
数学などは、あるところで分からなくなっているとすると、そこから先は真っ白になっているのかもしれません。
子どもの様子を見て、どの段階にいるのかを見極める必要があります。
そうすると、どうしても「自分の出番だ」と思ってしまうのです。
学びの原点
インディアンの子どもの話が出ています。
弓の上手なインディアンの男の子に、「誰に教わったの?」と尋ねると、怪訝そうな顔をして「自分で学んだ」と答えたそうです。
英語の上手なインディアンの女の子に「誰に教わったの?」と尋ねると「自分で学んだ」という答えが返ってきたそうです。
どちらも、自分の興味関心から、そのことが上手な大人について回って観察し、学び取るという学習過程があったというのです。
これが学びの原点だそうです。
人間は本来、自己成長への欲求を強く持っていますから、自ら学ぼうという構えを持っているのだそうです。
時代が進み、学ぶべきことが増え、学ばねばならないことまで増えてきたために、効果的な学習技術が開発されたり、受け身学習が主流になってしまったりしたのだそうです。
アクティブ・ラーニングの発想が出てきた背景には、受け身の形でしか実現されてこなかった学校での学習活動を、学習者が学びとる、本来の学びの形に変えようという転換を図るものだともいえるのです。
確かにその通りです。ゆったりした時間の中では、弓の技術や英語の会話を大人に訪ねながら自ら学ぶこともできるでしょう。
でも、時間が制約され、学ぶ内容も決まったものになってきたために、子どもは学習することを、窮屈に感じるようになったのではないかとも思えるのです。
「勉強はするものではありません。したいと思うものです。」と「女王の教室」で言っていたように、教師は子どもが「勉強したい」と感じるように努力しなければなりません。
教師は勉強を教えるのではありません。勉強したいと思うような方向に引っ張っていくのが教師の仕事なのです。
教育は教師の仕事ととらえてはいけない
多人数の教育は、産業革命のころからだそうです。
1クラス100人を超えるところから始まったそうです。
そんな中で「効率的な教育」という前提で教育が考えられていき、「子どもが主役」という言葉はあっても、現実は、教育は教師の仕事ととらえられました。
最近までは「教え方」の開発が、教育研究の主流でした。
アクティブ・ラーニングは「学習」という子ども側の視点で考えられたもので、教育の図式を大きく変えるものなのです。
しかし、子どものアクティブな学びは可能かどうか、疑問を持っている教師は少なくありません。
私の周りにも、「教え込み」をすることで学力を上げるのだと、一生懸命取り組んでいた先生も大勢います。
子どもだけに学びを任せていたら、何処に飛んでいくかわかりません。
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では教師の仕事とは何か
「学びがい」を子どもが受けとめる支援
ここからが筆者の言う大切なところだと思います。
「学びがい」の確かな方向付けをしっかりすること。
「学びがい」をしっかり理解させること。
これなくしては長く意欲づけとしては働きません。
「学びがい」をしっかり理解できるだけの「仕込み」もなく、浅い課題理解で学びに出発しても、成果が上がらないためにすぐに飽きてしまいます。
教師の支援は、この部分に対する支援なのだそうです。
深みのある有意義な探求を子どもができるために
ここからは本文そのままです。
子どもの、手ごたえのある学びを可能にするには、彼らの中に成功してゴールに着けるだけの予備知識が必要です。たとえば、何の準備もしないで「思うまま、感じたままに俳句を作ってごらん」といっても、それは子どもの自発性や感性を重んじた学習活動にはなりません。子どもたちはとまどい、結局何もできずに俳句作りに自信をなくし、興味をなくしてしまいます。
子どもに素敵な俳句を鑑賞させ、自分も言葉の力を使っていい作品を作りたいという意欲をもたせ、いい俳句ができるだけの手がかりを教師が工夫して与えておくならば、子どもたちは彼らなりに満足できる作品を作ります。このような支援がアクティブ・ラーニングには必要なのです。
「自分の好きなことをテーマに選びなさい」という指示で調べ学習のテーマを設定させても、子どもには経験がありません。
調べるほどに深まりがあり、資料がきちんと得られ、仲間に伝える価値のあるテーマを選ぶことはできません。
したがって、深みのある有意義な探求が可能で、なおかつ子どもがやってみようと思えるテーマとヒントを教師が準備したうえで選択させるという支援が必要なのです。
まとめ 改めて、なぜアクティブ・ラーニングか
確かにその通りですね。その通りだったんですけど、次の一文が引っ掛かります。
『子どもの、手ごたえのある学びを可能にするには、彼らの中に成功してゴールに着けるだけの予備知識が必要です。』
その予備知識はどのようにつけるのか。
予備知識を子どもたちが自らつけようとすれば、時間がいくらあっても足りないのではないか。
個人差がありすぎるのではないか。
などなど、たくさん疑問がわいてきます。
さて、思い出してください。最初にあった文章を。
『教えるという立場からアクティブ・ラーニングを発想しても、子どもは期待したようには動きません。「やっぱり先生に教えてもらった方がいい」をいいだすかもしれません。教師は、そこで自分の出番だと思ってはいけないのです。』
予備知識でも「教えて」はいけないのです。
次の章から、その方法が展開されていくことを期待して読んでいきます。
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